小さな哲学~雑想の世界
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 哲学エッセイ

 筆者について
筆者の研究業績研究業績
研究業績一覧

Ⅰ.著書
1.カントにおける認識主観の研究――超越論的主観の生成と構造―― (単著)
関西学院大学大学院博士学位論文、晃洋書房(京都市)、
2003年3月10日、A5判254頁

2.哲学してみる(Oscar Brenifier, Jacques Desprès: Livre des grands contraires philosophiques の日本語版、監修・翻訳)(単著)、世界文化社(東京)、
2012年5月20日、大型本80頁


Ⅱ.学術論文
1.カントに於ける認識主観の問題 (単著) 
『人文論究』第41巻第1号、関西学院大学人文学会、
1991年6月30日、13頁(17-29頁)

2.カントの時間論――時間系列の二つの側面について―― (単著)
『哲学研究年報』第25輯、関西学院大学哲学会、
1991年12月20日、18頁(17-34頁)

3.カントの他我認識論 (単著)
『哲学研究年報』第28輯、関西学院大学哲学会、
1994年12月20日、17頁(1-17頁)

4.カントの革命論 (単著)
『哲学研究年報』第29輯、関西学院大学哲学会、
1995年12月20日、16頁(37-52頁)

5.カントの目的の国 (単著)
『哲學論集』第42号、大谷大学哲学会、1996年3月31日、12頁(60-71頁)

6.カントのコペルニクス的転回 (単著)
『哲學論集』第45号、大谷大学哲学会、1999年3月25日、14頁(21-34頁)

7.カントの観念論論駁 (単著)
『大谷學報』第80巻第4号、大谷学会、2001年9月30日、18頁(17-34頁)

8.カントの他我認識論――その可能性と限界―― (分担執筆)
『自我の探求』(現代カント研究8)、晃洋書房、第Ⅴ章、
2001年11月30日、20頁(92-111頁)

9.カントの超越論的対象 (単著)
『哲学研究年報』第37 輯、関西学院大学哲学会、
2003年6月10日、24頁(183-206頁)

10.ルターとカント――キリスト的自由の世俗化をめぐって―― (分担執筆)
『仏教とキリスト教の対話Ⅲ』、法蔵館、「シンポジオンへの寄稿論文」、
2004年3月10日、18頁(223-240頁)

11.カントの宗教論――「単なる理性」をめぐって(単著)
『哲學論集』第52号、大谷大学哲学会、2006年3月8日、16頁(39-54頁)

12.自我・身体性・実体化――カント自我論の一考察(単著)
『大谷學報』第87巻第1号、大谷学会、2007年12月20日、14頁(21-34頁)

13.ナラティブとパリアティブ(分担執筆)
『揺れ動く死と生――宗教と合理性のはざまで』晃洋書房、
2009年3月、15頁(89-103頁)

14.金子大栄と西洋哲学――「観念の浄土」をめぐって(単著)
『比較思想研究』第37号、比較思想学会、2011年3月31日、9頁(110-118頁)

15.曽我量深の象徴世界観(単著)
『哲學論集』第58号、大谷大学哲学会、2012年3月18日、18頁(24-41頁)

16.金子大榮「私の真宗学」の翻刻と解説(一) 解説編
『真宗総合研究所研究紀要』第29号、2012年3月31日、36頁(23-58頁)

17.近代真宗仏教者の犠牲観(一)──多田鼎と暁烏敏を中心として──
『思想史研究』第15号、日本思想・思想論研究会、2012年4月30日、13頁(88-100頁)


Ⅲ.その他
1.カントにおける自我の実体化の可能性について (口頭発表)
関西哲学会第46回大会、大谷大学、1993年10月10日

2.カントの革命論 (口頭発表)
平成6年度特別研修員研究発表会、大谷大学、1994年12月16日

3.カントの革命論 (口頭発表要旨)
『大谷學報』第74巻第4号、大谷学会、1995年3月31日、2頁(74-75頁)

4.カントにおける経験的自我 (口頭発表要旨)
『哲学』第45号、法政大学出版局、1995年4月1日、3頁(101-103頁)

5.カントにおける経験的自我 (口頭発表)
日本哲学会第54回大会、國學院大学、1995年5月27日

6.他我があるかのように……――カントの他我認識論―― (講演)
大谷大学西洋哲学・倫理学会公開講演会、大谷大学、1995年7月21日

7.人間性の社会――カント社会哲学の一解釈―― (口頭発表)
平成7年度特別研修員研究発表会、大谷大学、1995年12月13日

8.人間性の社会――カント社会哲学の一解釈―― (口頭発表要旨)
『大谷學報』第75巻第4号、大谷学会、1996年3月31日、2頁(80-81頁)

9.カントの革命観 (口頭発表)
カント研究会第109回例会、京都大学、1997年4月26日

10.カントの他我認識論 (口頭発表)
カント研究会第137回例会、法政大学、1999年10月24日

11.クラウス・オッテ: キリスト教的視点から見た仏教側の反応 (翻訳)
(Klaus Otte,“Die Reaktionen auf buddhistischer Seite in christlicher Sicht”)
『仏教とキリスト教の対話Ⅲ』、法蔵館、第Ⅳ章、2004年3月10日、8頁(213-220頁)

12.清沢満之の内観主義(口頭発表)
日本宗教学会第68会学術大会、京都大学、2009年9月13日

13.清沢満之の内観主義(口頭発表要旨)
『宗教研究』第83巻第4輯、日本宗教学会、2010年3月30日、2頁(327-328頁)

14.State and Religion in the Thought of Daisetsu Suzuki(口頭発表)
Colloque: Identité nationale et religion en France et au Japon, l’Ecole Pratique des Hautes Etudes – Paris Sorbonne, 2010年5月5日

15.金子大栄と西洋哲学――「観念の浄土」をめぐって(口頭発表)
比較思想学会第37回大会、武蔵野大学、2010年6月19日

16.鈴木大拙の「大地」概念(口頭発表)
日本宗教学会第69回学術大会、東洋大学、2010年9月5日

17.鈴木大拙の「大地」概念(口頭発表要旨)
『宗教研究』第84巻第4輯、日本宗教学会、2011年3月30日、2頁(382-383頁)

18.Genderimplikationen in Symbolisierungen des Göttlichen
in buddhistischen Traditionen in Ostasien(講演)
Ⅶ.Internationales Rudolf-Otto-Symposion, Philips Universiät Marburg,
2011年5月14日

19.曽我量深の象徴世界観(口頭発表)
日本宗教学会第70回学術大会、関西学院大学、2011年9月3日

20.曽我量深の象徴世界観(口頭発表要旨)
『宗教研究』第85巻第4輯、日本宗教学会、2012年3月30日、2頁(410-411頁)

21.明治期の東京大学における外国人哲学教師(講演)
東洋大学国際哲学研究センター第1ユニット第7回研究会、東洋大学、
2012年6月27日


Ⅳ.科学研究費研究

日本における西洋哲学の初期受容
―清沢満之の東京大学時代未公開ノートの調査・分析―




著書および学術論文のの要旨

Ⅰ.著書
(5000字)
 本研究は、カント哲学の中心概念とも言える主観概念、とりわけカント理論哲学における認識主観の構造を、その形成過程の解明を通じて明らかにするものである。

 従来のカントの主観概念の研究、特にドイツの研究者のそれには一つの顕著な特徴が見られる。それはカントの主観を、いわゆる〈カントにおける心的能力の分断〉、つまり感性と悟性の分断、ないしは理論理性と実践理性の分断の解消の道具(手段)として解釈するという傾向である。これら二つの分断のうち感性と悟性の分断が注目された場合には、分断を解消する道具として使用される主観は、悟性を包摂する感性ないしは感性を包摂する悟性の形態をとる。理論理性と実践理性の分断が注目された場合には、同様の主観は多くの場合、実践理性の優位の思想の下、理論理性を包摂する実践理性となる。感性と悟性、理論理性と実践理性という両方の分断が注目された場合には、感性と悟性、理論理性と実践理性を包摂する絶対的主観となる。こうしたカントにおける分断解消のために研究者によって提出される主観は、対立する心的能力がそこから派生する根源的能力とみなされる点では共通している。つまりカントのいわゆる超越論的な主観は根源的な主観として、あるいは一種の「根源力」として考えられているのである。しかしカント自身、しばしば根源力を否定する発言をしており、このような解釈には疑問の余地がある。そこでカントの超越論的主観の構造を、1770年代後半から1780年代後半、ほぼ十年間にわたるその変遷生成を追跡することによって改めてカント自身のテキストのうちに探ることにする。この考察は次のような三段階に分けられる。第一部「超越論的主観(その一)――『形而上学講義』における認識主観(1770年代後半)――」、第二部「超越論的主観(その二)――『純粋理性批判』第一版における認識主観(1781年)――」、第三部「超越論的主観(その三)――『純粋理性批判』第二版における認識主観(1787年)――」である。

 第一部「超越論的主観(その一)――『形而上学講義』における認識主観(1770年代後半)――」では、主として1770年代後半までの前批判期における主観の典型的見解として『形而上学講義』の「心理学」における主観の考察が行われる。1770年代後半から1780年頃のものと推測されるL1文書に相当する「心理学」において超越論的主観が扱われるのは、「合理的心理学」である。「合理的心理学」とそれに先立つ「経験的心理学」との違いは、「経験的心理学」が広義の心的能力を表象(認識)能力、快・不快の感情の能力、欲求能力に区別して論じるのに対し、「合理的心理学」がそうした能力に共通する自発性を考察することである。『形而上学講義』における「形而上学」とは、存在を存在自体として絶対的に考察し、個々の存在者を越える存在一般の超越論的規定を取り出す存在論(超越論的哲学)であるが、「合理的心理学」の第一章は、心をそれ自体として絶対的に考察し、心に存在論の超越論的規定を適用する、「合理的心理学」における「超越論的部門」に相当するとされる。こうして「合理的心理学」において取り出された存在論的な意味での超越論的主観は、表象(認識)能力、快・不快の感情の能力、欲求能力に共通する、あるいはそれらの能力から超越した主観ないし実体となる。『形而上学講義』における超越論的主観は、〈超越的主観(実体)transcendentes Subject(transcendente Substanz)〉とでも言うべきものなのである(ドイツ語の表記については、アカデミー版カント全集の表記にしたがう。以下同)。

 第二部「超越論的主観(その二)――『純粋理性批判』第一版における認識主観(1781年)――」では、主として1780年代前半の典型的見解として1781年の『純粋理性批判』第一版における認識主観の見解が、『形而上学講義』の見解と比較しつつ考察される。『形而上学講義』における「形而上学」は存在を絶対的に考察する存在論(超越論的哲学)であり、「合理的心理学」の第一章は心を絶対的に考察する「超越論的部門」に相当した。これに対し1781年の『純粋理性批判』では、「形而上学」はア・プリオリで綜合的な認識体系と考えられる。『純粋理性批判』は存在論の基礎づけであるより、ア・プリオリで綜合的な形而上学的な認識がいかに可能かを明らかにする機能的・認識論的な研究書である。『純粋理性批判』第一版では、こうしたア・プリオリで綜合的な理性認識を可能にするものが「超越論的」と形容されるのであり、理性による認識能力を裁判する〈法廷〉が「超越論的」な批判に他ならない。こうして『純粋理性批判』第一版では、超越論的な主観を存在論的な意味での超越論的主観として、つまり〈超越的主観(実体)〉として扱う傾向は急速に後退することになる。 このような『純粋理性批判』の議論の進め方として、カントは「純粋悟性概念の演繹」の主観的演繹において顕著なように、『形而上学講義』の「経験的心理学」の論述方法を採用する。つまり感官から構想力を経て統覚へと至るという、いわば認識能力の下から上への議論において、ア・プリオリで綜合的な認識の基礎づけをしようとする。「純粋悟性概念の演繹」では、感官は多様を受け取る能力であり、構想力は綜合作用を、統覚は統一作用を司る能力である。この結果として「純粋悟性概念の演繹」では、綜合作用を司る構想力に対して、超越論的統覚は構想力の綜合作用に対する単なる関係点的な意味合いしかもたないことになり、それ自身は活動を含まないかのような〈静的〉なものとなる。統覚は他の能力に対して論理的に前提されるア・プリオリ(純粋)なものであるが、実際の綜合作用に関わるのは、むしろ統覚とは区別された構想力である。つまり第一版の議論では、超越論的統覚は他の下位の認識段階に対して論理的に先行するものとして、綜合的である側面よりもむしろア・プリオリ(純粋)である側面を強調されるのである。ここから、「純粋統覚」としての主観を構想力を経由して感官に包摂しようとする解釈が生じることは必至である。第一版の超越論的主観は、その純粋性の側面を強調された超越論的主観であり、いわば〈純粋主観reines Subject〉とでも言うべきものなのである。

  第三部「超越論的主観(その三)――『純粋理性批判』第二版における認識主観(1787年)――」では、主として1780年代後半の典型的見解として1787年の『純粋理性批判』第二版における超越論的な主観の考察が、『形而上学講義』および『純粋理性批判』第一版との比較の下に行われ、第二版以降の諸著作、特に『実用的見地における人間学』に見られる認識主観が付随的に考察される。1787年の『純粋理性批判』第二版では、第一版では不明瞭であった、ア・プリオリで綜合的な認識体系としての「形而上学」を可能にする「実験的方法」が明確にされる。『純粋理性批判』は、形而上学を可能にする実験的方法の書となるのである。カントは形而上学における実験的方法の導入をコペルニクスの革命になぞらえている。一般にコペルニクスの「革命」は〈秩序の《急激》な変化〉という抽象的意味での革命を意味するとされる。しかしコペルニクス自身の意図した革命は観察者の回転を意味する天文学的な概念であり、同時にそれ以前の思想との関係において抽象的意味での革命となったものである。この意味で、コペルニクスの革命に倣ったカントのいわゆる〈コペルニクス的転回〉もまた、それ自身の内容としては観察者という主観の回転運動を意味し、しかし同時に従来の伝統的な形而上学との関係において〈秩序の《急激》な変化〉という意味をももつ二義的な概念であると解されるべきである。こうしたコペルニクス的転回を成就する実験的方法はカントにとって、ガリレイやトリチェリの実験がそうであったように、与えられたものを分析して仮説を立てる〈仮説段階〉と、仮説を実際に現象に投げ入れ、仮説の客観的妥当性を証明する〈証明段階〉(および証明を他の角度から補助する、つまり仮説が実験対象である現象以外の構成原理とはならないことの説明である〈証明補助段階〉)からなる。仮説段階はわれわれの認識要素(直観形式と概念形式)をア・プリオリ(純粋)に、形而上学的に問う分析的な議論であり、証明段階は仮説段階において明らかになったア・プリオリ(純粋)な認識要素がいかに実際の綜合作用を可能にするかを超越論的に問う綜合的な議論である。
 「超越論的感性論」における直観形式に関する仮説段階と証明段階の議論では、すでに第一版でも仮説段階に相当する部分が十分に論じられていたことから、第二版において純粋直観としての空間と時間が改めて強調されることはない。しかし第二版で付加された証明段階では、空間と時間がア・プリオリでありかつ綜合的な学問を基礎づけることが論じられる。また同じく第二版で付加された証明補助の段階では、空間と時間が感性の形式(外官と内官という感官の形式)として強調され、特に感官の形式としての内官が強調される。空間と時間が感官形式として強調されることは、それらが触発の際の条件として捉えられることでもある。触発は偶有性を介することから、触発によってわれわれに与えられたものは即自存在ではなく現象である。したがって「超越論的感性論」の証明補助段階では、即自存在に対して空間と時間が超越論的観念性をもつことが説明される。

 「超越論的論理学」の「概念の分析論」では、概念形式の仮説段階に相当する形而上学的演繹および証明段階に相当する超越論的演繹では、直観形式の場合と同様に仮説段階は第一版でも十分に論じられていたことから、第二版において特に新しい議論がなされるわけではない。しかし第一版では不明瞭であった証明段階においては、まず客観的演繹では範疇が改めて直観一般に対応する純粋な思考作用の形式であることが強調され、範疇の知性性とわれわれの思考作用の自発性が強調される。言い換えれば、範疇による知性的綜合と純粋統覚の作用が強調される。こうした思考作用の自発性の強調によって、一方では、カントの主観を感性に包摂しようとする解釈は根拠を失うことになる。しかし他方では、次のような解釈を誘発することになる。つまりこうしたわれわれの(理論理性の)思考作用の自発性を強調し、それによって感性を包摂しようとする解釈が生じ、同じ思考作用の自発性を実践理性の自発性と同質のものとし、実践理性によって理論理性を包摂しようとする解釈が生じる。あるいはまた同じ思考作用の自発性を過度に強調する、感性と悟性、理論理性と実践理性をまとめて包摂する絶対的主観の解釈が生じる。しかし客観的演繹は単なるア・プリオリな要素の分析的な考察であり、それだけで終わるなら『形而上学講義』の「合理的心理学」の立場と何ら変わらない。範疇も〈抽象的普遍性〉をもつに過ぎない。そこで客観的演繹に続く主観的演繹では、範疇が直観一般の中でもとりわけわれわれにとって可能な感性的直観に対する思考形式として強調され、範疇の〈具体的普遍性〉が強調される。つまり範疇による形象的綜合とそれを司る超越論的統覚の作用が強調される。この段階において、第一版では綜合作用を司る構想力から分離され、精々のところ綜合作用に対する関係点的役割を果たすに過ぎなかった統覚は、その中に構想力の綜合作用を含むような〈動的〉な思考作用となる。言い換えれば、第一版では専らそのア・プリオリ(純粋)な側面を強調されていた統覚は、第二版では自らが綜合作用に関わる綜合的な側面もまた強調されることになる。実験的方法は、被観察者ではなく自然の観察者自身を〈回転(革命)〉させることによって自然界の法則を説明したコペルニクスの方法に倣ったものであったからである。こうして統覚は、われわれにとって意味のある、具体的に経験を構成するものとなる。そしてこのことは同時に、客観的演繹における純粋統覚が抽象的な意識一般に過ぎないことをも暴露する。これにより、われわれの(理論理性の)思考作用の自発性を強調し、悟性によって感性を包摂しようとする解釈は根拠を失うことになる。あるいはまた同じ思考作用の自発性をさらに強調し、絶対的主観によって感性を包摂しようとする解釈も根拠を失うことになる。

 主観的演繹は即自存在に対する範疇の非妥当性を説明していることから、すでに証明補助の段階を含んでいる。しかしわれわれの範疇が経験的使用のみを認められ、存在論的な意味での超越論的使用を認められないこと――あるいは超越論的使用が超越論的仮象を生じること――のさらなる証明補助の説明がされるのは、「観念論論駁」や「超越論的論理学」の第二部、「純粋理性の誤謬推理について」においてである。「原則の分析論」の「観念論論駁」では、〈動的〉な統覚による形象的綜合が、静止するもの(外物、統覚以外のもの)との対比的な作用であることが論じられる。「純粋理性の誤謬推理について」では、統覚の作用が単なる理論的な認識作用であり、実践的な認識能力ではないことが論じられる。これによって、われわれの思考作用の自発性を実践理性の自発性と同質のものとし、実践理性によって理論理性を包摂しようとする解釈は根拠を失うことになる。同様にして、過度に思考作用の自発性を強調した絶対的主観に、理論理性の諸能力のみならず実践理性と理論理性をも包摂しようとする解釈は改めて根拠を失うことになる。こうして『純粋理性批判』第二版において完成された超越論的主観とは、いわゆる〈カントの心的能力における分断〉を解消するために研究者によって捻出された主観を否定する、厳密な意味での認識論的な超越論的主観である。あるいは、あくまでも自発性でありながらも感性的な制約を無視しない節度ある自発性であり、いわば自らの能力に一線を画す〈批判的主観kritisches Subject〉とでも言うべきものなのである。

 以上、本研究は、カントの超越論的主観としての認識主観が、まず〈超越的主観(実体)〉として形成され、次いで〈純粋主観〉に移行し、最終的に〈批判的主観〉として確定されるに至った思想的発展を明らかにしたのである。

(200字)
 従来の主要なカントの主観解釈は、超越論的主観を、対立する心的諸能力の「根源力」とみなすという誤りを繰り返してきた。ここでは、カント理論哲学における認識主観の構造を、前批判期から批判期におよぶ文献を駆使しつつ、その形成過程の分析を通じて解明した。カントの超越論的主観としての認識主観は、まず1770年代までの前批判期に〈超越的主観(実体)〉として形成され、次いで批判期の1780年代の前半に〈純粋主観〉に移行し、最終的に1780年代の後半に至って、根源力であることを否定する限りでの〈批判的主観〉として確定されたのである。

Ⅱ.学術論文
1 .カントが『純粋理性批判』第二版において提出した「叡知者(叡知体Intelligenz)」「知性的意識(表象)」等の自我概念には、従来二通りの解釈があった。一つは、認識主観(対象構成にかかわる主観)として論理主義的に解釈するものであり、一つは、行為主観の表現として実践哲学の観点から解釈するものである。ここではこの概念を、対象構成にかかわらない非措定的な意識として解釈し、経験科学では把握されない現実的な人間存在を示唆するものとした。

2.学術論文1の非措定的意識を、時間性の観点からさらに考察した。カントは対象構成を、前後的な時間構成の観点から見る。しかし非措定的意識は前後的時間には関係せず、カントは対象構成に関係しないある種の感情(内官 innerer Sinn)を、(過去)・現在・未来の時間系列に結びつけている。前後的な時間系列が拡がりのない〈瞬間〉によって区切られるの対し、過去・現在・未来の時間系列は拡がりをもつ〈現在〉によって区切られる。非措定的意識は空間性への方向をも示唆する。

3.自我が単独で社会を構成することは不可能であり、そこには自我と並んで複数の他我が前提されている。ここでは、他我を主題的には扱わないカントの著作にも散見される他我認識の方法を抽出した。カントの他我認識の方法は、初期フッサールの思想に類似した一種の感情移入によるものであり、カント哲学の体系の中では反省的判断力の統制的原理に依拠しうる。自我は、自らの身体感情を基礎にし、〈自己身体〉と類似した〈他者身体〉の背後に他の自我が存在すると「想定」するのである。

4.身体は欲求の主体であり、身体的欲求は社会での対立の可能性を孕む。カントによれば、この対立は形式的な「論理的対立」ではなく、「実在的対立」である。また現実に対立する二項の上下関係の倒錯である「革命」は、実在的対立そのものである。悪が善の欠如ではなく実在する両者の上下関係の倒錯であること、快が不快の欠如でないことも、それらが実在的対立に依拠していることによる。カントにおいて革命は社会悪であり、同時に、快と不快の実在的対立を前提した、不快を介した快である「崇高」とも境を接する危うい構造をもつ。

5.カントの「目的の国」の構成員は「人格性」であると解釈される。人格性は抽象的な行為主観であることから、人格性の構成する目的の国も、非現実的な仮想的共同体とされ、単なる統制的理念であるとされる。しかしカントによれば、目的の国の構成員は「価格をもつか尊厳をもつか」である。「尊厳」は目的自体である抽象的な人格性を指すが、「価格」は「手段」ともなる「物件」を示唆し、物件には身体が含まれうる。この意味では、目的の国の構成員は、目的と同時に手段ともなる現実的な人格性、つまり「人間性」でもある。

6.カントのいわゆる「コペルニクス的転回」(Kopernikanische Revolution)は、認識論上における〈秩序の急激かつ根本的な変化〉という抽象的意味の革命として一義的に解釈されている。しかしカントが自らの転回をなぞらえるコペルニクスの革命は、本質的には〈天球の回転〉を意味する天文学的意味の革命であり、他の思想との関係において同時に、今日われわれが使用する抽象的意味の革命に相当した。カントのコペルニクス的転回もまた、同様の二重構造をもつと解釈すべきである。

7.カントは観念論を論駁する観念論者であるとされる。カントはどのような意味の観念論を論駁する、どのような意味での観念論者なのであろうか。『純粋理性批判』第二版における「観念論論駁」の読解を通じて、カントの超越論的観念論の構造を考察した。

8.学術論文3に最新の研究者の見解を付加して議論を補強し、全体的に加筆修正を施したもの。特に、反省的判断力の統制的な使用についての議論を詳細にした。

9.カントが『純粋理性批判』第一版において使用した超越論的対象には、従来、それをカントの体系において肯定的にとるか、否定的にとるかで大きく二つの立場に解釈が分かれてきた。ここでは、超越論的対象の多義性を明らかにし、整合的な解釈を示した。

10.ヘーゲルによれば、西洋の近代史とは、キリスト教的自由の必然的な世俗化過程にほかならない。ここでは、キリスト教的自由の世俗化過程のなかで屹立する存在としてルターとカントをとりあげ、両者がそれぞれ果たした、そうしたキリスト教的自由の世俗化過程のなかでの役割について考察した。

11.カントの宗教論(『単なる理性の限界内の宗教』)における宗教の意味を、「単なる理性」という言葉に着目しながら解釈したもの。

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